祖母・ひさについて

祖母はおそらく僕にとって最初に出会った作家であった。彼女は40代の後半、当時まだ手書きだった街の看板屋に勤め、映画館や店舗の看板の製作に携わった。短い期間ではあったが、その事が後の創作のきっかけとなった。僕が物心ついた頃には、自宅で自由奔放に絵や陶芸や刺繍画、写真等の創作、寄り合でのパフォーマンスや手品と、好奇心の赴くままに表現活動の幅を広げていた。僕が見る限りおよそ30年の間、技術的な向上は見当たらず、また作品の質も「もらってもちょっと困る」感じのまま平行線を辿っていたが、周囲の反応をよそに、本人の根幹には、作る行為そのものの喜びと、人を楽しませたいという欲求が途切れる事なく持続していた。同時に日常を超越する力を棚ぼた的に得たいという欲求が彼女の行動の端々にみられた。縁起物が作品のモチーフの大半を占めていたのもその表れだったように思う。しかし、本人の想いとは裏腹に作品にそうした呪力が定着した例を目にした事はなかった。

確か小学生の頃だったと思う。放課後祖母の家に立ち寄ると、雑多な部屋の中央に置かれたテーブルの上に、とぐろを巻いたウンチの形をした茶色い陶器が5〜60個程並んでいた。着いて早々「まあ君、金運が上がるでな」と言って2cm程の茶色いウンチを手渡され、仕方なく財布に入れた。数年前アトリエの掃除をしていた際、小箱の中から20年ぶりにホコリをかぶった陶器のウンチが出てきた時は驚いた。金運に恵まれた事は無かったが、テーブルの上の鈍い輝きと、作品群を前にした祖母の満面の笑みは今でも脳裏に焼き付いている。突飛な行動に周囲を巻き込むことも多く、時折変わり者のちょっと困った存在として扱われがちではあったが、その度に「お前に似ている」と言われる事に僕は悪い気はしなかった。

また、こんなエピソードもある。僕が中学校に上がった頃であった。市の文化センターから「橋本雅也さんの絵が入賞しました」との連絡を受けた。コンテストに応募した記憶は無かったが、会場には学校の図工の課題(幾何学模様で平面図を構成する)で描いた絵が飾られており入賞していた。が、よく見ると自分の絵に似てはいたが様子が随分違っていた。三角定規を多用し、幾何学的な線と面で構成していた僕のミニマルな絵画が、手書きの危うい曲線に変わっていてサイケデリックにリミックスされたような、粘質で異様な空間が広がっていた。後に、その絵は祖母が僕の絵をもとに新たに描きなおした物で、橋本雅也の名義で公募展に出品をしていた事を家族が突き止めた。彼女は何故だか分からないけど当選ハガキなどに僕の名前を使っていた。

祖母は飲み屋街の横丁の雑多なビルの三階に晩年一人で暮らしていた。一階は居酒屋、薄暗い二階にはスナックが四軒、その最上階の三階に祖母の住まいがある。泊まりに行くと決まって二階のスナックからカラオケの歌声が枕越しに響いてきた。90が近づいても毎日のように一階の居酒屋に飲みに出ていた祖母であったが、生命力あふれるファンクな彼女にも老いの重力は日に日に増していた。
数年前、帰郷した際、祖母を誘い一階の居酒屋に飲みに出た。妻と3人で飲むのは初めてであった。帰り、酔いの回った祖母の脇を抱え二階まで上がったところで彼女は体を離し、3階まで送ろうとする僕達を止め別れを告げた。薄暗い階段のドアを閉めると、擦りガラス越しに、急な階段を上る後ろ姿がボヤけて見えた。やがてその姿は暗がりに消えて、錆びた手すりの擦れる音と、荒い息遣いとともに聞こえる足音が頼りなく耳に届いた。その足取りに、自由奔放な表現の影に隠れていた、独りの橋本ひさという存在に初めて触れた気がした。