気配についての雑感

神奈川県民ホールギャラリー『5rooms 気配の純度』に寄稿

気配についての雑感

気配と聞いて思い出すのは、初めて猟に同行し、一頭分の骨と肉を譲り受けた際の事だ。肉や筋を切り分け、油抜きした骨をアトリエの片隅にまとめて置いた。アトリエに入る度にその一帯に異様な気配を感じた。何度扉を開けてもやはりその周縁には他とは異なる生々しい空気が充満しているように感じられた。しばらく手を付けなかった為、この状況は二ヶ月ほど続いた。色々と想像して恐くなったりもしたが、よく観察すると骨にはまだ油や肉が僅かに残っており、かすかな匂いや湿気など、目に映る事はないが身体が認識することの出来る情報がそこに存在していた。そうした空気にちりばめられた微細な物質に異様だとか心地いいと意味づけをするのは私たちの意識の側にあるのだろう。今思えばこの彫り始めるまでの二ヶ月間は、物とその気配について学ぶ機会になっていた。

動物の骨や角は油が残っていたり血液や神経が通っていた痕跡が残っていたりして、他の素材と比べて生々しさがある。その為扱う際はどこまで取り除くか残すかの加減には気を使う。こうした素材を扱う難しさはアクの強い野草を調理する難しさに似ているかもしれない。竹の子のアク抜きを色々と試していた時期があって、ある方法によってきれいにアクが取れたことがあった。が、同時に風味も抜けてしまって味気のない仕上がりとなった。その時、アクと風味がとても近いところにあることを知り、アクは多少残っているくらいの方が筍は美味い。という結論に我が家では(今のところ)落ち着いている。以降、骨や角を扱う際にも同様の注意を心がけている。

また、捉えがたい物の気配について、音を聞く行為に置き換えてみると見えてくる事がある。例えば、物とその周縁の空気との関係は、物を叩くと鳴る打音とその後に響く倍音との関係に近く、またそのままでは受け入れ難いと感じられる素材を、加工し形を整える事で作品の成立に繋がる過程は、不快な雑音と感じる音であっても、音量を調整し、前後に階調を整えた音を配置する事によって音楽として聞く事ができるのに似ている。 そうした素材の気配を知覚する作業が作品の成立に影響してくるのは、強い素材だけに限った話ではなく、木彫にも当てはまる。だけど逆に、ごく身近にあって慣れ親しんだ木のような素材ほど、素材そのものの気配は物を取り囲む空間との差異が少なく、見る側により繊細な感覚を要求されるため別の難しさがある。

最近、新たに「土」と出会い、これまで慣れ親しんだやり方が揺らいでいる。まず当たり前だが柔らかく、ユルユルと手の中で変化する様子は倍音そのものを操っているような感覚に近く、身体の奥に潜む微細な感覚や記憶を形へと定着できるのではないか、物の内奥にうごめく力の働きを捉えうるのではないか、と予感はあるが、できそうでできない。この素材によって開かれた新たな領域を様々な素材を往復しながら探っていきたい。

 

2018年12月